2006年10月30日

秋の三昧

…という訳で、昨日は「みかん狩り」に行ってきた。

急な斜面を這いずり、柔らかな山風に額と首筋に滲んだ汗をさらしながら食べた、もぎたてのみかんは、どれも最高だった。

加えて、山頂でのBBQは、大人も子供もハッピータイムだ。今年は、5家族が参加する中、めいめいが特選素材を持ち寄った。

あの骨付きカルビのジューシーなこと。お得意様限定の分厚い牛タンも2枚食べれば天国だ。自家栽培の野菜も肉に負けず劣らず自己主張し、味噌をからめて丁寧に焼いた焼きおにぎりも格別だった。

我が家からは、「皮」「ずり」「ハツ」の三種の焼き鳥を持参した。当日の朝、私が串を打った。素材そのものは、普通に売られている地鶏だが、小さめに切り、それを3〜4切れずつ串に打つ。いわゆる、一口サイズだ。焼き方は中火の遠火がよく、塩とその打ち方にもこだわる。こうすることによって、何の変哲もない、ありふれた鶏肉でも、口いっぱいに甘く、深く、香ばしい味が広がる。

時間を忘れて、食べ、飲み、語らう。これぞまさしく、秋の贅沢三昧。

てな訳で、最後に本日の一言。

みかんは食べ放題ですが、取り放題ではありません。

そして、ブログも見せ放題ですが、書き放題ではありません。


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2006年10月06日

実体のない世界

そもそも何を「実体」と言うか。少なくとも、「文字」だけでは掴めない。少なくとも、「映像」だけでは掴めない。少なくとも、「音声」だけでは掴めない。思想は、「文字」となり、「映像」となり、「音声」となる。つまり、「思想」そのものに「実体」はない。

ならば、「生身」が「実体」か、というと、その「生身」を呈した本人は、「違う」と答えるだろう。本人ですら、自らの「実体」が何なのか、どこにあるのか、答えられないのかも知れない。本人もわからない実体を、周りは、いかにして実体化するかに躍起になっている。

ネットは、思想のルツボだ。相も変わらず、ネットには、実体がない。正確には、実体がないことがネットの実体だ。

ただ、人間とはおかしなもので、実体がないと言われれば、そんなこと物理的にある訳がないと直感し、どこかに実体を見出そうとする。その見出し方を踏み外したとき、あるいは、見出すことにある種の快感を覚えたとき、どうなるか。いつしか、実体のないものに洗脳され、中毒となるだろう。少なくとも、この現象だけは、実体として残る。物理的にごくごく小さくものが、思想的に大きな風呂敷をまとって、実体を大きく見せる、そんなことは珍しくもないが。

1週間、実体世界にいて、今日久しぶりに、実体のないネット世界を見て、つくづくそう思った。
posted by ぐれぃ at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月26日

有意な判決、無意味な死刑

笑う被告、涙の両親 奈良女児殺害判決
奈良女児殺害、小林被告に死刑判決 被害者1人で適用
(何れも、asahi.comより)

上級審が支持するかどうか、特に最高裁が支持することになれば判例変更も余儀なくされるだけに、今回の地裁判決は画期的であると思う。これを踏まえて、弁護側は最高裁まで争うつもりでいるのだろう。

これをよそに、当の小林被告は、宅間死刑囚を引き合いに出し、「死刑を望む」とのこと。

小林被告、よく聞いて欲しい

もし、最愛の母に抱かれたいのなら、命を投げ捨てて「死刑を望む」前に、尊母のおられる天に召されるためにも、先ず、命をかけて「人間性を取り戻す」必要がある。

でなければ、あなたが愛し、あなたを愛する母は、あなたを抱きしめもできず、ただひたすらに、この世にあなたを産み落としたことを天で嘆き続けるだろう。
posted by ぐれぃ at 16:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月22日

逆らわず、従わず

日章旗や君が代の歴史は知っている。これらにアレルギー反応を起こす者がいることも。かの大戦の縮図の一つと言いたいのであろう。

いや、話をややこしくする気は毛頭ない。まして、法律問題にするつもりもない。それが確認訴訟であっても、話をこの流れにすると、収拾がつかず、平行線を辿ることは自明だから。

時代は、いつの日もリズムとバランスである。複数の考え方・見方があるから、動的なリズムが生まれ、静的なバランスが保たれる。一部の権力や裁量権の不当行使で、こうしたリズムとバランスが狂うことは許されない。

要するに、国旗掲揚時の起立や国歌の斉唱を、トップダウンで強要することはいけない。同時に、歴史認識が未熟な小中学生にとっても、意味のわからない国旗掲揚・国歌斉唱の時間は正直退屈だろう。

他方、慶祝の場で、意図的に国旗掲揚時に頭をうなだれ、伴奏者の立場を越えて国歌をピアノ演奏せず、かと言って、こうした不作為の基となる思想・信念を子供達に伝道する訳でもない反体制派のそれを、日章旗を焼く反日派の偏狭なナショナリズムの類型と咎める気もない。

しかし、思うのである。

慶祝的儀礼の場では、各個人の思想の下、自然に成り立つ日本人共通の拠り所が一つくらいあっても良いのではと。

でなければ、単に「(属しながら)逆らわず、従わず」を子供達の前で披露したことになるのではないかと。
posted by ぐれぃ at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月21日

似た話

先程のエントリーで、その記事内容と似たようなニュースを見つけたので、紹介しておく。

罵声を浴びせた者が拍手喝采を受ける世の中。

国連もブログも、さほど違わない。。。
posted by ぐれぃ at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

スローライフへの道

三連休で二泊三日のキャンプに行って来た。幸いにも台風の影響はなく、拍子抜けの感が残った。

どんな天候になろうとも、その天候に見合ったキャンプライフがあるし、そもそも山の天気など変わりやすいから、それなりの用意と心構えはしている。それが野営というものだろう。しかし、台風に関しては、やはり警戒心ばかりが先に立つ。だから、ご一緒した友達家族とは、状況に応じて早めの撤収も視野に、と事前に打ち合わせていた。この打ち合わせは、結果的に取り越し苦労となったが、今回の反省点としては、なんと言っても、残してきた家族の心配の大きさだ。

我が家には小学低学年の子供の他に、1才になる赤ん坊が居る。従って、当初は家族全員で参加できるログハウス有りのキャンプ場を利用する予定でいたのだが、諸々の事情により、ログハウスのないキャンプ場を利用することになり、家内達には参加を断念してもらった。実は、夏休みも直前に子供が風邪を引いたりで、結局一家全員で旅行することができなかったから、今回のキャンプも少々寂しい気がしていた。その上、台風接近ということもあり色々思料したのだが、友達家族とは6月頃からの約束だったので引くに引けず、複雑な心境のまま決行することにした。

そして、いざキャンプ場へ来てみると、ときおり雨がぱらつくものの、それは日常的な山の天気の範疇でしかなかった。台風報道にも拘わらず意外にキャンセルは少なく、他のサイトもほぼ一杯の状態だった。

普段のキャンプと変わらない風景の中、我々は、山を散策し、子供と触れ合い、ダッチ料理に舌鼓をうち、温泉でしこりを抜き取り、焚き火を囲んで語らい、虫の音に耳を傾け、森のさえずりに身を委ねて、スローライフにどっぷり浸っていた。
一方、家内達は、それどころではなかったようだ。台風のニュースを見て、その被害状況を伝えるメールは、まさに心配の塊だった。こちらの平和な風景を写メールしようとも、いつ急変するかわからない、という心配を払拭する力まではなかった。

確かに、いくら高性能のテントやシールドでも、時間が経てばペグの打ち込みやロープが緩み、その状態で突風が吹けば、もはや我々の手中に属することなく、制御不能な大凧となって空を乱舞することになる。かと言って、我々の体までもが空に吸い込まれることはないのが、テントやシールドの倒壊は避けるに超したことはないので、今回は、40cmのソリッドステークを打ち込んで、過剰なまでの設営を行い、ロープのチェックも数時間おきに行うなど、風への対応は余念がなかった。もちろん、奥深い山では、この時期もう、気温や水温が下がって川では泳げないから、河川に近づくこともない。キャンプにおける、こうした常識的な行動は、事前に家内に伝えてあったし、子連れということもあって、我々もその都度リスクを再認識していた。それでも、扇情的なまでの台風報道は、日常に残された者達の気持ちを揺さぶっていた。

結局、我々が日程通りキャンプする中、家内達は心配で夜も寝付けないほどだったらしく、帰宅後、7才の子が澄んだ目で思い出話をするのを見て、ようやく落ち着いたようである。

氾濫する扇情的な情報世界でスローライフを満喫することは難しい。
かと言って、情報から閉ざされた自然世界で過ごすスローライフはリスクと背中合わせだ。

本物のスローライフへの道はまだまだ遠い。
posted by ぐれぃ at 13:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月08日

過而不改・是謂過矣

「過ちを改めざる、是を過ちと謂う。」

これは余りにも有名な故事であるが、ここでは「過ち」を犯せば「改める」という自明の理の下、「過ち」を定義するのみで、「改める」を定義してない。確かに、「改める」とは一体どのようなことを言うのか、簡単に答えることはできない。しかしそれは、広がりの末端を探そうとするからで、最低限のことは誰しもが理解できるはずである。

例えば、山口高専生殺害事件において容疑者である少年が遺体となって発見されたことになぞらえれば、もし、この少年が殺人という過ちを犯し、その「改め」として自殺したと言うなら、これこそ典型的な「過ち」である。なぜなら、「命の引き替え」をしても、被害者からすれば「改め」たことにならず、当然罪を償ったことにもならないからである。

つまり、「過ち(殺人)」を犯した原因(犯罪者)が消滅(死亡)しても、消滅しただけでは「改め」たことにはならないし、同時に、その「過ち」が消滅する訳でもない。むしろ、原因の消滅によって「過ち」そのものを消滅させようとする行為は、冒頭の漢文が指摘する通り、「是を過ちと謂う。」
posted by ぐれぃ at 15:26| Comment(0) | TrackBack(0) | ケチな話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月06日

改憲の象徴

紀子様が男児を出産されたことで、目先の皇位継承問題は一段落した。端的には、事実上、未来の天皇が誕生したことを意味するに他ならない。従って、改憲の目玉とも言うべき、天皇の地位や天皇制度に関する論議は、現行のまま生き続けるのだろう。

一方、安倍氏という事実上、未来の総理大臣が誕生したことで、改憲の超目玉と言うべき、9条の改正論議が現実味を帯びてきている。

このような背景下、最低限の事実は、日本国憲法は一度も改正されることがなかったことである。これは他の立憲国に類を見ない。この間、天皇を元首化・神化する暴走はなく、9条は日本国憲法を平和憲法として維持したことも事実である。

今更、日本国憲法第1章、第2章を引用するのもお粗末だが、この機会に是非、前文と併せて、条文を読み返してみるのも有意義ではないか。

日本国憲法


第1章 天 皇 (第1条〜第8条)
第2章 戦争の放棄 (第9条)

  昭和21・11・3・公布
  昭和22・5・3・施行

前 文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

第1章 天 皇
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第2条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
第3条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第4条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
 2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。
第5条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。
第6条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
 2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
  1.憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
  2.国会を召集すること。
  3.衆議院を解散すること。
  4.国会議員の総選挙の施行を公示すること。
  5.国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
  6.大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
  7.栄典を授与すること。
  8.批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
  9.外国の大使及び公使を接受すること。
  10.儀式を行ふこと。
第8条 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。

第2章 戦争の放棄
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
posted by ぐれぃ at 16:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

おめでたの象徴

本日午前、紀子様が男児を出産された。先ずは「おめでとうございます」と言いたい。

世の目は当然男女の別にあったのだろうが、秋篠宮夫妻が「自然の形のまま受け入れたい」との姿勢を貫いたことは、子を持つ親として共感する。とは言うものの、男児誕生という結果には、喜びも一入であろう。この感覚は、一姫二太郎を授かった私も感ずることで、「もし女児だったら喜び半減だったのか。」「女児を授かった時よりも今回(男児誕生)の方が感動したのか。」という類の不毛な仮想比較を持ち込む余地がないほど、新鮮且つ自然な感覚である。

さて、皇室問題に目を移せば、男児誕生ということで、当然皇室典範改正が見送りムードとなる反面、「でかした!紀子様」とする風潮も予想される。となれば、雅子様の肩身が今以上に狭くなることも容易に予想できる。

こうしたお世継ぎ問題では、時代錯誤とは言え、「彼方立てれば此方が立たぬ」も致し方なく、殊、皇太子に嫁いだ女性の宿命と言ってしまえばそれまでだが、今般、我々は女系天皇を容認する心構えでいたのだから、間接的でありながら露骨な雅子様蔑視は回避しなくてはならない。

とにかく、天皇家の世襲制は、「おめでたの象徴」という最も世に分かり易く、受け入れられ易い形で続行されることになった。
posted by ぐれぃ at 15:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月05日

痛し痒し

小泉さんだと痛いし、安倍さんだと痒い。

民主党だと生体移植のリスクがあるし、社民党や共産党ではそもそも治癒力がない。

じゃぁ、この人達って、一体何の為に日本に居るの?
posted by ぐれぃ at 17:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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